晴天

 空は晴れている。
 大きな青い布地を切り裂くように、真っ直ぐに飛ぶ飛行機が、地上に小さく影を落とす。その光景をトビヲは何よりも愛していた。

 晴れた日には、学校から帰るとすぐに、家から少し離れた河原まで自転車で出かける。小さな飛行場があるのだ。そこで飛行機が離陸するのを飽かず眺める、それがトビヲの生活の全てだった。
 トビヲは飛行機が好きだ。トビヲにとって飛行機の機体はこの世で一番美しく、力強い造形であり、巨大で重い飛行機が自在に空を飛ぶ姿は、トビヲのあこがれだった。
 いまのトビヲのお気に入りは「神風零型」という戦闘機だ。河原の飛行場からもしょっちゅう飛び立ってゆく神風零型の、すらりとしたシャープなシルエットはトビヲをすっかり夢中にさせた。
 トビヲは十歳で、この国が海の向こうの国と戦争をしているのは知っていたけれど、それは大人の世界のことで、つまりどうでもいいことだった。おやつを食べさせて貰えなくなったのは辛かったが、学校が休みになる日が多くなったことは純粋に嬉しかった。トビヲに一言のことわりもなく飛行場の周囲に鉄条網がめぐらされたことは腹立たしかったが、頭の上を飛んでいく飛行機が増えたことは楽しかった。

 河原の片隅の、背の高い草がぼうぼうに繁っているせいで隠れがのようになっている一角を、トビヲは気に入っている。トビヲはその場所を自分だけの秘密基地だと思っているから、誰にも教えていない。が、最近ではそこに先客がいることがある。ユキ彦だ。
 初めてユキ彦と出会ったのは二、三か月前だっただろうか。いつものようにがさがさ草をかきわけたトビヲは、思いがけず見知らぬ青年をそこに見つけて、目をまるくしたまま動きを止めてしまった。彼は十年も前からここの主だったみたいに、くつろいだ様子でタバコを喫っていた。灰色の作業服のような服を着て、銀縁の眼鏡をかけていた。その場に立ち尽くして戸惑っているトビヲに、ユキ彦はにこりともせずに話しかけた。
「きみ、僕がここに居るってことを誰にも言わないでくれ」
「ここ……ぼくの場所なんだけど」
 トビヲはおずおず言った。ユキ彦は背は高かったが、ひょろひょろしていてあまり強そうには見えなかったのだ。
「そうか、それはすまなかった。すまないついでに、しばらく僕にもここを貸してくれないか」
 気はすすまなかったが、「貸す」だけならいいような気もして、トビヲはうなずいた。ユキ彦はそっけなく、重ね重ねすまないね、と言い、吸い殻を携帯灰皿に落とした。その日はそれきり二人は口をきかず、トビヲは隣のユキ彦を意識しながら青い空を眺めた。時折ユキ彦を盗み見ると、彼は睨むような眼差しで空を見上げていた。

 ユキ彦は飛行機のことをよく知っていた。自分からあれこれ教えてくれることはなかったが、訊けば何でも答えてくれた。
「トビヲ君は、飛行機が好きなんだな」
 あるとき、ユキ彦はぽつりと言った。ユキ彦は、話し方にも表情にも喜怒哀楽がほとんどあらわれない。はじめのうち、トビヲはいちいちユキ彦の顔色をうかがっていたが、すぐに慣れて友だちみたいな口をきくようになった。
「うん、大人になったらパイロットになりたい。神風零型を自由に操って、ずっと遠くまで行くんだ」
「神風のパイロットか……」
 ユキ彦は無邪気に目を輝かせるトビヲを見、空を見た。彼は何も言わなかったが、その視線にはやっぱり、敵意があるのだった。

 飛行機に限らずユキ彦は物識りだった。なぜ、そんなに色んなことを知ってるの、とトビヲが訊ねると、きまって「勉強したからさ」という答えが返ってきた。あと少しで大学を卒業する、というときに戦争が始まって、ユキ彦は学校に通えなくなったのだそうだ。勉強が好きでないトビヲは、勉強が出来なくなったことを悲しむユキ彦をとてもえらいと思い、同時にちょっと不思議に思った。そんな話をひとしきりした後で、ユキ彦は不意に言った。
「この戦争がどうして始まったか、きみは知っているか」
「向こうの国が、わが国を不当に侵攻してきたから」
 トビヲは学校で習ったとおりに言った。正直なところ、「フトウ」という言葉も「シンコウ」という言葉も、よくわかっていなかったのだけれど。
「……きみの先生がそう言ったのか」
「うん」
 ユキ彦は溜め息をひとつ吐いて、ひとさし指で眼鏡を押しあげた。
「不当に攻めてきた訳じゃない。領空を横切っただけだ。それをいきなり領空侵犯だとか言って撃ち落とした、この国が悪いんだ」
「リョウクウ……シンパン……?」
 外国語の呪文をとなえるように、トビヲは問い返した。
「地面には国境っていうのがあって、どこからどこまでがどこの国、って決まってるだろ。それが空にもあるんだ。よその国へ行くために旅券が要るのは知ってるね、勝手に入るわけにはいかないだろう? 空も同じだ。許可なく国境を越えてはいけないんだ」
 ユキ彦は大人と話すようにトビヲにも話をするから、彼の言うことはいつもトビヲには少し難しかった。けれどトビヲは熱心に聞いた。ユキ彦が話してくれることは、父さんも母さんも先生もけっして聞かせてくれないことばかりだったからだ。
「……しかし旅客機だ。戦闘機ではなかった。民間人が乗っていると知りながら攻撃するなんて馬鹿げている。そんなのは口実だ。軍はあの国に戦争をふっかけるきっかけを、ずっと待っていたのさ。そうでもしないと、経済状況はもうどん底だからな」
 ユキ彦は淡々と言った。聞き慣れない言葉が次々に出てきて、トビヲの頭は多少混乱気味だったが、ユキ彦の言いたいことはぼんやりとわかった。しばらく考えてからトビヲは言った。
「……ぼく、空って、どこでも好きなところに、自由に行けるものだと思ってた」
「そうだな。トビヲ君の言うとおりだ」
 唇をゆがめてユキ彦は笑った。
「空に国境なんて引けるはずがない。ここからは俺の領空だから立入禁止だ、などと言い出した奴はどうかしている。空は空だ。空を分割したり、所有したりするなんて思い上がるにも程がある。空に対する冒涜だ」
 ユキ彦はまた空を睨みつけた。「ボウトク」という言葉をトビヲは初めて聞いた。その日耳にした幾つもの難しい言葉のうち、「ボウトク」はひときわ強くトビヲの印象に残った。それはトビヲが一番大切にしている模型飛行機のように、普段は箱に鍵をかけてしまっておき、いざというときにしか使ってはいけない、特別な言葉のように思えた。
 ユキ彦の視線など知らん顔で、太陽があかるく照りつけていた。

 飛行場から飛び立つ飛行機は増え、おやつどころかごはんのおかずも満足に食べられなくなり、大人たちはますます不安顔になった。一時期、毎日のようにあの場所に来ていたユキ彦も、あまり姿を見せなくなった。
 その朝、トビヲは怒りにまかせて力いっぱい自転車をこいでいた。朝食のとき、トビヲは兄さんといさかいを起こしたのだ。発端は父さんの「いよいよ、P-B29Jがこっちにも飛んでくるかも知れないな」という一言だった。
 世界的な大企業、ピース社が開発したP-B29Jは、海の向こうの国の次世代型攻撃機だ。その外見は従来の飛行機のフォルムとは異なり、機体の全体が三角形の大きな翼になっている。航空機というより映画に出てくる宇宙船を思わせるその機体をニュースで見て、トビヲは驚き、興奮した。そのP-B29Jが、トビヲの頭上に現れると父さんは言ったのだ。トビヲははしゃいだ。本物のP-B29Jを見れる、と喜んだ。
 そのトビヲを兄さんは平手で打った。兄さんは「おまえはそんなに死にたいのか! そんなに、この国が負けるところが見たいのか!」と顔を真っ赤にして怒鳴った。兄さんが何を怒っているのか、最新鋭の飛行機ですごくかっこいいP-B29Jを見たいと願うことの何がそんなにいけないのか、トビヲにはわからなかった。やがて、痛みとともに理不尽な怒りがトビヲのなかにわき上がってきた。
「知らないよ、ぼくはP-B29Jが見たいだけだ!」
 そう言い捨てて、トビヲは家を飛び出したのだ。
 河原に着くと、久しぶりにユキ彦がいた。ユキ彦は、足が濡れそうなくらい川べりぎりぎりに立っていた。トビヲは声をかけようと近づいたが、ユキ彦の横顔に厳しい、近寄りがたいものを感じて、少し離れたところで立ち止まった。ユキ彦はタバコに火を点け、かがんで足許に立てた。それからタバコの前に、手に持っていた花を横たえた。小さな花をつけるその野草は河原のあちこちに生えていたが、トビヲは名前を知らなかった。タバコの煙が晴れた空に向かって真っ直ぐにたちのぼり、それを見送るように空を仰いで、ユキ彦は目を閉じた。
 かなり長いことそうしていてから、ユキ彦は立ち上がった。トビヲと目が合うと、彼は珍しくほほ笑んだ。何してたの、と訊きたい気持ちを抑えて、トビヲは何も言わずに軽く会釈をした。けれど、トビヲの心を読んだように、ユキ彦は呟いた。
「供養をしてたんだ」
「クヨウ?」
「友人のね」
 ユキ彦は草を踏みわけてすたすた歩いていく。トビヲも早足でついていった。いつもの場所に腰を下ろしてからも、トビヲはなんとなくユキ彦に話しかけづらかった。しばらくして、ユキ彦がいつもと変わらない口調で「今日は早いじゃないか、何かあったの」と言った。トビヲはおそるおそる口を開いた。
「ねえ……P-B29Jがここにも飛んでくるって、ほんとう」
「ああ」
 短く、しかしはっきりとユキ彦は答えた。
「ぼく、P-B29Jが見たいって言ったら、兄さんに撲たれたんだ」
 トビヲは食卓での出来事を話した。話しているうちに、ユキ彦の静かな空気に圧されてどこかへ行っていた怒りが、再びこみあげてきた。トビヲが話し終わると、ユキ彦は強い光をたたえた目でトビヲを見た。
「……それは、僕がきみの兄さんでも、きみを撲ったよ」
「どうして?!」
 トビヲは思わず大声を出した。ユキ彦は穏やかに続けた。
「トビヲ君、きみは、P-B29Jが何のための飛行機だかわかっているのか? 爆撃機だ。町を焼き、住民を皆殺しにするためにP-B29Jは飛んで来る。きみがP-B29Jを見るということは、きみが死ぬということだ」
「そんなことわかってる、ぼくは、ただ、P-B29Jが見たいって言ってるんだ」
 憤慨のあまりトビヲは半泣きになった。
「戦争とか、爆撃とか、関係ないんだ。ぼくはただ、P-B29Jや神風がかっこいいから好きなんだよ、それだけだよ。人が死ぬのは飛行機が悪いんじゃない。ぼくは飛行機が好きなんだ!」
「……いいや。飛行機が悪いんだ」
 ユキ彦の声にはぞっとするような冷たさがあった。トビヲは口をつぐんだ。
「あれは殺人のための道具だ。いいか、飛行機は兵器だ、兵器として開発されたんだ。あんなものが生まれたから、領空なんてくだらない概念も生まれた。あんな無様な鉄のかたまりで空を支配しようとしたことがそもそも間違いだ」
「ちがうよ……!」
 トビヲは叫んだ。ユキ彦に、敵意すらおぼえた。ユキ彦の言ったことは、飛行機に対する「ボウトク」だと思った。
「初めに飛行機をつくった人は飛びたかっただけだ、空が好きだっただけだ、ぼくみたいに!」
「まだわからないのか!」
 トビヲが知る限りはじめて、ユキ彦が声を荒げた。びくり、とトビヲは体を震わせた。そのとき、「サエキ!」という野太い怒声が聞こえた。トビヲは雷に打たれたように硬直し、ユキ彦はさっと立った。
 乱暴な足音に続いて、浅黒い顔のがっしりした男が現れた。男はユキ彦と似たような灰色の服を着て、銃をかついでいた。
「佐伯、貴様こんなところで何をしているッ」
「申し訳ありません」
 ユキ彦は顔から血の気が引いていたが、男の高圧的な物言いに怯んでいる様子はなかった。
「貴様、母国のために死力を尽くす覚悟はあるのか、えっ、佐伯ィ! へらへら眼鏡なぞかけやがって」
 男はユキ彦を殴った。鈍い、嫌な音がした。落ちた眼鏡を、男は踏みつけて蹴飛ばした。
「直ぐに戻れ。直ぐにだッ」
 男はユキ彦の両腕を背中に回させて拘束し、そのまま鉄条網のほうへ追い立てた。トビヲには目もくれなかった。ユキ彦もまた、トビヲのほうを振り向きもせず連行された。グラスが割れ、フレームがひん曲がった眼鏡だけがそこに残された。

 何日かしてユキ彦がやって来たとき、トビヲは目を見張った。ユキ彦の頬は腫れあがり、口元には青あざがあった。眼鏡はかけていなかった。
「めがねは……」
「ああ、どうせだて眼鏡だったから構わない。僕は本当は目は悪くない。目が悪い振りをしていれば、飛行機に乗らなくて済むかと思っていただけだ」
「えっ?」
「僕は神風零型のパイロットだ」
「それ、どうして早く言ってくれなかったの!」
 声を熱っぽくうわずらせたトビヲに、ユキ彦はひとさし指を口の前に立ててみせた。トビヲは慌てて口を押さえた。
「なりたくてなったんじゃない。今日はきみにお礼を言いに来た。今までここを貸してくれてありがとう、助かったよ。僕はもう来ない。明日、出撃するから」
 ユキ彦は空を見上げた。その目には敵意はなく、空の青がそのまま映っていた。
「きみはいつか神風を自由に操縦したいと言ってたな。……神風の任務は、海を越えて、向こうの国の軍事基地に突っ込んで壊滅させることだ。そのために神風零型は生産された。爆弾になることが目的の飛行機だ」
 一瞬、トビヲの視界は真っ暗になった。口を開いたが、言葉はなかなか出てこなかった。
「それって……それって、わざと墜落するの」
「そうだ」
「そのために……そのためだけに……神風は……」
 炎上するがれきに、自殺するように次々墜ちていく飛行機を、トビヲは見た。その光景は、ユキ彦が瞳に宿した晴天を背景に、はっきりと見えていた。
「さよなら」
 軽く手をあげてユキ彦はトビヲに背を向け、二度と振り返らなかった。けれどトビヲはすでに、ユキ彦の背中を見てはいなかった。

 雲ひとつない空に、ヒコーキ雲がひとすじ流れていた。涙が、トビヲの頬をつたって落ちた。ユキ彦との別れが辛いのではなかった。まして、もうすぐユキ彦に殺される人達が可哀想なのでもなかった。トビヲは飛行機を思っていた。海を越えても、この空を自由に飛ぶことも出来ず、墜ちて燃えていく飛行機のために、トビヲは泣いた。
 空は晴れている。

今回のテーマどうしよう、「空」なんて何も浮かばないよ!(私が出したんですが)とずっとぼんやりしていたんですが、SOFT BALLETの「ESCAPE」という曲を繰り返し聴いていたらあるとき突然イメージがふくらんで話が出来ました。書き始める前に、参考にと思って改めて観た宮崎駿の「紅の豚」とスピルバーグの「太陽の帝国」にも触発されつつ、書きました。この三つの素晴らしい作品に感謝したいと思います。なかでもとくに、「ESCAPE」に。
 そう言えば一年前のニューヨークでも、飛行機は兵器に使われたな、などという思いもちらっと頭を過ぎりました。締切が9月10日だったのはまったくの偶然ですけれども。

 本当はもっと勉強して史実に忠実な設定で書きたかったのですが、結局架空のお話になってしまいました。でも、こういう感じの話はあまり書いたことがないので、非常に楽しかったです。 /2002.09.10.