惜春(075:ひとでなしの恋) 

 昔むかし、後ろの山には鬼が棲んでいた。
 かれは十年にいちどの春に里との境の社に現われ、約束どおりに人身御供の娘を喰らって山に帰る。山の麓、里との境界には桜の森が広がっており、毎年みごとな花をつけた。ことに社のかたわらに立つ千年を経た古木は、鬼の来る年にはひときわ美しく咲き誇る。
 伊知郎がはじめてその桜を見たのは、あれは、七太の姉の七重が鬼に喰われた年だった。

 伊知郎の育った里はよく肥えた豊かな土地だった。木には果実がたわわに実り、みずみずしい野菜がよくそだち、水は澄んで冷たく、稲穂も重たげに頭を垂れた。
 遠い遠い昔、この世に人が満ちるずっと以前より、この地のいっさいは鬼のものだった。地にあふれた人どもがすみかを奪いあって、止むことなく戦が繰り返された時代にも、鬼がおさめるこの地に火を放つ者はなかった。長い長いあいだ、この地に人が足を踏みいれることはなかった。戦に敗れて落ちのび、追い詰められた一族が、逃亡の果てにここに流れつくまでは。
 長く苦しい流浪に一族は疲れ果て、もうほかに行くあてもなかった。一族の長は勇気を奮って山の麓の桜の森のいちばん美しい樹の下で鬼に会い、懇願した。どうか住まわせてくれ。田を、畑をつくらせてくれ。娘とひきかえに鬼は願いを承知した。
 古老たちから繰り返し繰り返し一族の昔話を聞かされて育つ里の子どもたちは、一様に大人しく、黙りがちだった。ものごころつく頃にはその物語をそらで言えるほどに馴染んでいた伊知郎も、例外ではない。

 差し出される娘は十四、五歳前後の生娘からえらばれる。古老たちが集り、籤引きできめるということになっているが、本当のところは誰も知らない。
 落人がほそぼそと暮らすかくれ里のこと、もともと人の数は多くはない。運わるく十年ごとのその年にあたってしまった娘は、青ざめ、口数も少なくなり、身をちぢめてじっと春を待った。逃げ出したり、自死をはかったり、男と契ろうとしたりする者はいなかった。もし自分がまぬかれたとしても、いずれ身代わりになるのは同い年のあそび友達の誰かなのだと、どの娘も知っていた。
 いっちゃんやたかちゃんにあたらなくてほんとうによかった。おのれが贄になると知った七重は、血の気の引いた面でそう言って気丈に微笑んだ。七太と伊知郎が十になるかならないかで、七重は十五になったばかりだった。難を逃れた七重の幼なじみの娘たちも、七重と七太の父母も、家同士のつきあいの長い伊知郎の父母も、みな正体なく嘆き悲しんでいた。当の七重と弟の七太だけが、たんたんとしていた。
 母よりも姉を慕っていた七太は泣くことも怒ることもせず、まわりに何を言われてもじっと押し黙っていたが、伊知郎にだけ、ひとことぽつりと呟いた。
 ねえさんが喰われるところを見にゆく。
 社に娘をつれてゆくのは神官ひとりだけと定められており、ほかの者はその近くに寄ることさえも禁じられていた。もとより鬼が現われて娘を喰ういまわしい場所に近づこうというもの好きもいなかった。七太は伊知郎にともに来いとは言わなかったが、伊知郎が俺もゆく、と申し出たのを止めようともせず、ただ頷いた。

 弥生月のおわり、深更と黎明が入れかわる境の刻限に、布で顔を被った神官に手を牽かれて、白い単衣を着せられた七重はひっそり出立した。身を切るような冷たい外気にこごえながら、七太と伊知郎はおさない足で必死にあとをつけた。
 どれほど歩いたろうか、明けの明星を残して闇は薄らぎ、いつしかあたりは薄青い透明な空気で満ちた。道は桜の森にさしかかっていた。すでにぽつぽつ花をつけている木々を見上げて、伊知郎はおや、と思った。まだ季節が早く、里の桜のつぼみは固いのに、この森の桜はほころびはじめている。道を進めば進むほど、開花している木が多くなり、咲き方も派手になってゆく。七太は気付いているだろうか、と伊知郎が隣を見ると、七太の目は前をゆく七重の背にぴたりと据えられ、景色など眼中にない様子だった。
 社についたときには東の空は白々と明るんでいたが、まだ日は昇っていなかった。社を見下ろすように立つ桜の幹に、七重はくくりつけられた。くくりつけた七重と対峙して何言か呟き、幾度か礼をして神官は足早に去った。
 沈黙のなかに七重と、七太と、伊知郎が残された。大勢の大人たちが囁きあっているような気配を不審に思って伊知郎があたりを見渡すと、七重がくくられた桜の花が頭上でざわざわと揺れていた。滅多に人が訪れないために荒れ果て、今にも朽ちてしまいそうな社と対照的に、樹齢千年を誇る古木は美しく、森のどの木よりもみごとに花をつけていた。何かをこれほどに美しいと感じたのははじめてで、おのれがどういう経緯で、何のためにここに居るのかを忘れて、伊知郎は枝いっぱいに咲き乱れる花を見詰めた。
 静寂は何の前ぶれもなく破られた。山から鬼がおりてきたのだ。七重はじっと目を閉じ、がっくりと首を垂れて動かない。七太の目が張り裂けんばかりにみひらかれる。鬼は並外れて丈が高く、並外れて痩せており、赤い瞳をぎらぎらさせて、気が狂わんばかりに飢えていることがひとめで知れた。鬼は骨ばった手で七重をひと掴みにすると、荒々しく喰らいついた。
青みがかった夜明けの清浄な光のなかで、鬼は一心不乱に七重を喰った。間断なくきこえるばりばり、むしゃむしゃという音の合間にも桜はざわめき、鳥たちがおだやかにさえずる声がときおりまじった。
 七太はまたたきひとつせずに姉が喰われるさまを凝視していた。目の前の光景と、七太の様子と、どちらもが尋常ではなかった。伊知郎はただただおそろしく思っていたが、ふいにあっと声をあげそうになった。
 桜の花が降りだしたのだ。かすかに吹いた風を合図に、古木は惜しげもなく花を散らせた。もはや血と肉と骨に還った七重と、それを夢中でむさぼる鬼をいつくしみ愛撫するように、たえまなく花びらは降りかかり、降り積もってゆく。

 そのあとのことは憶えていない。どうして家に帰り着いたものか、気がついたときには伊知郎は布団に寝かされていた。ひどい熱で、しばらくのあいだは床の上に起きあがることもこともできないほどだった。
 父も母も向かいの家のかの子も、伊知郎の枕許に心配げな顔つきで座ってはどこへ行っていたのか、何があったのかと伊知郎を質した。もちろん伊知郎は誰にも何も話さなかった。七太とさえ何も語り合わず、お互いなにごともなかったかのように振る舞った。