箪笥

 森美術館で見た中国の現代芸術家、アイ・ウェイウェイの展覧会は面白かった。
 中でも「月の箪笥」が良かった。胴にまるく穴のあいた花梨の箪笥が七竿並べられたインスタレーションで、周りをぐるりと巡りながら眺めると、こちらの歩みにつれて折り重なった穴の陰影がちょうど月の満ち欠けのように見える。
 そのロマンティックさに心を惹かれて、私はいつまでも箪笥の周りをうろうろと歩き回り、新月から満月へと自在に移ろう月を見つめた。

 森タワーを出て、風が強い六本木ヒルズを歩きながらコートのポケットに突っこんだiPodを探り、イヤフォンを耳に押し込んだ。久しぶりに恋をするように音楽にのめりこみかけていて、あるミュージシャンの曲ばかりを延々と聴いていた。
 前の晩、TVもラジオもない部屋で一人きり、携帯電話を握りしめて夜更けまでインターネットをさ迷い、匿名で書きこまれる噂話をむなしく追いかけていたことをふと思い出す。「クローゼット」って曲あったよね、やっぱり意識してるのかな。まさか、考えすぎだと思う。だいたいあれは……の作詞じゃなくて、外注だよ。何も深い意味なんかない、ただの洋服だんすの歌でしょ。
 洋服だんすか、と思って少し笑った。

 開けっぱなしにしておけばはしたないと咎められて、変だとか派手すぎるとか不釣り合いだとか中身にとやかく口出しされる。
 隙間なく閉じておけば中身を好き勝手に想像される。実はサイズが人並みじゃないのだとか、色の好みがおかしいんだろうとか、とにかくまともな服じゃないとか、貧しくてろくに服が揃っていないとか、そもそも仕舞われているのが服ですらないとか、タバコやキャンディが入っているとか。
 そうして空っぽだという可能性だけは想定すらされない。正直に「何も入っていない」と言ったところで信じてはもらえず、箪笥である以上中が空なんてありえない、そんなものは箪笥ではない、欠陥品だ、と散々に言われ、蔑まれる。
 本当は他人の箪笥のことなどどうでもいいのだ。
 自分の面倒だけ見ていればいいものを、人の箪笥の中を覗こうとしたり、むやみに詮索したりするのは下品な趣味だ。そうわかっているのに、誰よりも私が他人の箪笥の中を気にしている。言動や、日々の服装や、写真や文章や絵や楽曲などその人の手になるものに時折滲む微かな痕跡に目を凝らし、他人の秘密を暴こうと躍起になっている。不安でたまらないのだ。自分が持たないものを持つ人々が、怖くて仕方ないのだ。浅ましいことだ。

「月の箪笥」を思い返して泣きたくなった。
 あの美しい箪笥は空洞だった。隠すでもなく、晒すでもなく、空であることを美しさの拠り所にしていた。
 美しいけれど、箪笥として使うために部屋に置くことは私にもできない。私はあれが欲しい、でもそれは箪笥本来の目的を求めての欲望ではない。「月の箪笥」の価値は洋服だんすとしての機能にはない。
 それはもう、箪笥ではないのかも知れない。

 自分以外の誰かの箪笥の中身をいつも望んでいる。
 ごくありふれた、つまらない、ただし中身は空っぽの箪笥を持つ私は、願わずにはいられない。私の愛するミュージシャン、愛する人たちの箪笥が、「月の箪笥」でありますように、と。

in the closet; 2010.02.11