本屋をふらふら歩いていて、以前大好きだったバンドのアーティストブックを見つけた。
 へえと思って、子供の頃のアルバムでも捲るような気分でふと手に取った。銀色のきれいな表紙の、豪華なつくりの本だった。触った途端、銀色の表紙に私の指紋がはっきりとついた。
「!」私は動揺して、半ば落とすようにして本を元の位置に戻した。ブラウスの袖口を引っ張って手を覆い、直接触れないように今度は注意深く本を持ち上げて、もう片方の袖で表紙を拭ってみたが、指紋は消えてくれなかった。仕方なく、私は本を置いて店を出た。中は全く見られなかった。手のひらに汗が滲んでいて、自分で気持ち悪かった。
 私は、中学生の頃そのバンドが本当に好きだったのだが、今はすっかり熱が冷めていて、彼等に再び夢中になる事はないだろうという予感もあった。私にとってそのバンドは既に無関係な存在で、過去だったのだ。
 だから、私があのアーティストブックを買う可能性はこの先無い。触れる必要さえ無かったのだ。
 それなのに、私のものにはけしてならないあの本に、私は私の痕跡を残してしまった。そのことがなぜか悲しかった。私の指紋、あの独特のうずまきの模様がついてしまったあの本を、私の知らない誰かが買って部屋に置いておくのだと思うとどうしてか胸が痛んだ。罪悪感に似た痛みだった。

 触ったものすべてに指紋がつくという当たり前の事が怖ろしくなるときがある。テレビの中の犯罪者のように、黒い革の手袋を嵌めて、ドアのノブというノブを拭ってまわりたいという気持ちにかられることがある。
 私は触ったり触られたりすることが苦手だが、所謂潔癖性ではない。電車の吊り皮やカラオケのマイクを握ることに何の抵抗も無いし、缶ジュースをまわし飲みすることも平気だ。
 寧ろ私は、他人がつけた痕跡よりも、私自身がつけるあとを嫌悪している気がする。
 白いコーヒーカップのふちにあかく残る口紅が嫌で、口紅をひいているときはコーヒーを飲みながら何度も何度もふちを気にしてしまうのも、そういう嫌悪から来る癖なのかも知れない。とにかく、私が触った、というあとがつくのが耐えられないのだ。不特定多数の指紋がついていることは全然意識しないのに、私の指紋がついたものはやけに汚く思える。消してしまいたい。
 いつからそうなったのか、ときおり私は、自分に病原菌でもいるかのように、自分が触ったものを汚いと感じてしまうのだった。何気なく隣の人と手が触れただけで、はっとして手を引っ込めてしまうのにも、「私なんかに触られて、この人は不快ではなかっただろうか」という思いがある。
 ……つくづく自分で自分を嫌いなんだなあと他人事のように思う。
「バイ菌、バイ菌」と囃されたりして苛められた事でもあっただろうかと考えてみた。あるような気もするし、無いような気もする。でも、頭の中にぼんやりと浮かぶ給食の時間の風景は、大概憂鬱を伴う記憶なので、やはり小学校のとき何か言われたのかも知れない。忘れてしまった。
 人間なんて儚いものだといつも思うけれど、触れるすべてのものにこの世にただ一つしかない痕を残して生きているのだと思うと、執念のような何かを感じる。自分を「透明な存在」だと言った、神戸で子供を殺した少年Aだって、机や椅子や誰かの肌に確かに指紋をつけながら生きてきて、これからも生きていくのだ。
 私を取り囲むもの達に、無数に付着した私の指紋。私が生きているという、「汚い」有機体であるということの無数の痕跡。気が遠くなる。  どうせ、いちばん痕跡を残したいと願っている、いとしいひと達の心や記憶には何も残っていかないのに、物理的な痕ばかりが無駄に増え続けていくのだ。
 それならいっそ何の痕も残さずに生きられれば良いのに。
 触っても指紋の移らない、そんな指を持つ生き物であれば良かったのに。
 そういえば、きれいなもの程指紋ははっきりとつきやすい、不意にそんな事を思った。磨き抜かれた硝子窓、真新しいグランドピアノ、一点の曇りもない鏡、つめたいステンレスの鍋……
 そういった無機質で「きれい」なもの達。そう、あの好きだったバンドのアーティストブックの表紙も、きれいな銀色をしていた。私が好きだった頃の彼等の音楽そのものように、私が触れることを拒むように、
 きれいだったのだ。

mark; 1999.01.04