PHSのアラームのときも母の声のときもあるが、ともかく呼び起こされる時刻には私は夢のなかにいて、最近では「遅刻せず授業に出席する」ということよりも夢の続きの方が大事なことのような気がして私は眠りに逆らわない。
 仕事に出かける母をやり過ごし目覚ましを止め、刻々と動く時計をどこかで意識しながら私は気持ちよく眠り続ける。夢が途切れて、何のきっかけもなくぼんやりと目が覚めるまで。
 海の夢をよく見る。くらげの漂う海で泳ぐ海を見た。いつか千葉の内房で見たように、糸のようなくらげの触手が流しそうめんみたいに幾筋も幾筋も海面を揺れていた。
嫌な夢だった。

 のろのろと時計を見ると大抵昼を過ぎている。最初の授業、10時40分からの2限目、フランス語はもう終わっている時刻で、昼休みあけの次の授業にも間に合わないだろうと他人事のように思う。今日もまる一日休みにして、昨日からの連休にしてしまおうか、それとも6限の博物館学だけは出ようかとぬるい牛乳を飲みながら考える。
 どちらにしても一時間で支度をして家を出なければならないという状況ではないので、私はボサボサの髪をかきあげながら朝刊を隅から隅まで読む。片づけられないままテーブルに出してある朝食は、あまり好きでない食パンなので食べる気が起きずに放っておく。
 音が欲しくてTVをつけるけれど、「笑っていいとも」は見る気がしない。何となく、音楽番組を録りためたビデオを再生する。何度となく見た映像を巻き戻して覚えてしまったトークに何度でも笑っていると、いくらでも時間は潰れていく。

 昔のビデオをひっくり返したりベッドに転がって雑誌を捲ったりだらだらしているうちに中学校の授業が終わる時刻になり、そろそろ弟が帰ってくるかなと私は落ち着かなくなる。 いくら何でも学校から帰ってきたら姉がパジャマで家に居るのではあんまりだろうと今更ながらに思ってしまうのだ。
 そうは言っても怠いし動きたくも無いのでしばらくは何もせずにうろうろして、だらだらを続ける。博物館学を出るかサボるかしつこく迷いながら。
 ギリギリになって私はようやく重い腰をあげてシャワーを浴び、歯を磨いて髪を梳かす。美容院でふわふわのパーマをかけてもらって軽かったのも束の間で、すっかり落ちてだらしないくせっ毛に戻ってしまっている。それを無理矢理ひとつに束ねて鏡を見る。よく遊びに行くショップで買ったばかりのTシャツを着ているのに、マネキンが着ていたときあんなに可愛かったのが嘘のようにつまらなく見えた。
 軽く失望して、それでもペディキュアを塗りサンダルを履いていると、弟が帰ってくる。一瞬気まずい思いで顔をあげる私に弟は当たり前のように「ただいま」と言う。いい加減、夕方まで家にいる姉の姿には慣れっこになっているのだろう。

 のろのろ歩き、途中で本屋に寄ったりしてそこでも時間を喰いながら、なんとか駅に辿り着く。大学までは3回電車を乗り換えなければならない。時間的には一時間ぐらいだが、面倒だ。
 地下鉄の座席に座って、暗い窓をぼんやり眺めていると突然やるせなくなってくる。
 どうせ学校へ行かないのならあの午前中はもっと有意義に使えば良かった。もうすぐ終わってしまうピカソの展覧会を見に行っても良かったし、図書館へも行けただろう。
国立近代美術館の常設展示を見るいい機会だった。
 寝てなんかいないで、私はどこへだって行けたのだから、行けば良かったのだ。
 海へだって行けたのに、

   (いいえ。海へはもう行けない。)

 高校生の頃は、駅までのはずのバスを終点まで余計に乗って、川越街道をのぼっていくだけでどこかへ行けた。有楽町線を高校のある駅で降りずに新木場まで行って、そこから海へ行く電車に乗り換えることだって出来たのだ。
 高校生だったある朝、私はひとりで千葉の海を歩いた。
 冬で、風は冷たかった。洒落た名前のガラス張りの展望台にのぼったら世界には私しかいないような錯覚に陥った。浜辺で貝殻を拾いながら海の向こうの国のことを思った。数学の試験と手を付けていないレポートから逃げ出している私より、ずっと辛い暮らしをしている遠い国の子供を思った。
 それらはとても幸せな記憶で、今日私が海へ行っても、あの日のあの海へ行けはしない。そこにはただの海藻に混じってゴミが落ちている、東京近郊の海辺があるだけだろう。
 定期券が私を束縛している。それを無視して海へ行く、たったそれだけのことが私には出来なくなってしまった。

 海へ行けない私はどこへ行けばいいのだろう。
 定期券は私を学校にしか連れて行ってくれない。学校は行かなければならない場所で、私はそこへ行って有り余る居場所のどこかで一人、取り残されるしかない。
 飯田橋で東西線に乗り換える。その終点は海に近い駅。私はどこへも行けずに、地下鉄に揺られながら泣きたくなる。

I cannot go to sea; 1999.early summer