水族館

 K水族館にはいつもまぐろを見に行く。360度、ドーナツ型の水槽を回遊するまぐろをただぼんやり眺める。私がこの水族館を気に入っているのは、海に近いそのロケイションのせいもあるけれど、大部分はまぐろのおかげだと思う。
 人でごった返す水族館になんて居たくないので、私は大抵、平日にふらっと出かける。ある木曜日の午後、いつものようにまぐろ水槽の前で座り込んでいたら、不意に悲しくなった。

 それより前に水族館で悲しくなったことが一度あった。千葉のシーワールドでシャチを見たときだ。海を背にしたプールの中で、かれは水面を尾でばしっ、ばしっと力強く叩いたり、水飛沫をあげて身体を動かしたりしていた。天気が好い日で、白黒の身体が濡れて光っていた。シャチは巨きくて、美しくて、とても場違いだった。
 なぜ、こんなにきれいな生きものが、狭いプールに閉じこめられているのだろう。似合わない、このシャチに似合う場所は海のほかには有り得ないのに。その答えは簡単で、見たがる人間がいるからに決まっている。例えば私のような。かれを見たいばかりに、わざわざ東京から房総半島まで来てしまう、私のような見物客のために、かれはここにいるのだ。
 そう思ったらたまらなくなった。ごめんなさい、と言いたかった。ごめんなさい、と言いながら、それでも私は長いことシャチを見ていた。

 まぐろが泳ぎ続けていないと死んでしまうのは有名な話だ。大洋を航るまぐろは、速く、かつ長距離を泳ぐために、酸素を大量に必要とする。その体の仕組みについて正確なところは忘れてしまったが、とにかく泳ぐのを止めると呼吸が出来なくなって窒息死する。まぐろ水槽の前で、そんな解説を何度も聞いた。だからまぐろを水族館で飼育することは難しく、それに成功したK水族館は話題になったのだ。
 水槽の中をまぐろはぐるぐるとまわり続けている。時折、スピードをあげたり急旋回したりして、お客さんの目を楽しませながら。もう過酷な航海をする必要のない環境でも、止まれば死ぬからだに変わりはないから、かれらは同じ場所を行ったり来たり、何キロも何キロも休まず泳ぐ。
「死んだまぐろはこっそり食べているんですかとよく訊かれるけれど、実際には薬臭くて食べられないと飼育係は言っていました。少しでもまぐろを長く生かすために、抗生物質かなんかを水に混ぜているんです」と、職員から聞いた。その人はこんな話もしてくれた。ときどき、水槽のかたいアクリルに猛スピードでぶつかって、死ぬまぐろがいる。水槽に入っている魚の数が多すぎるのだ。けれど、まぐろを少なくすると迫力がなくなって見栄えがしなくなる。それでも現在は水槽内の魚の密度も落ち着いてきて、激突死するまぐろも減ったのだそうだ。過去にはダイナミックに見せることを最優先するために、「死んだら新しく足せばいい」と構わず大量のまぐろを泳がせていたときもあったという。

 動物園は動物を展示するという目的のほかに、調査・研究や種の保存という役目も併せ持っている。それは水族館も同じなのだろうが、水族館はより見世物であるように思えてならないのはどうしてだろう。そして私は、多分その不健康さゆえに動物園より水族館を好んでいる。
 ちっぽけで醜い私なんかを癒すために、閉じこめられた魚たちが必要だというのなら、私の存在はどこまで無為で罪深いのだろうと、まぐろを見ながらせつなくなった。
 なんて傲慢で、偽善的な感傷だろう! それこそ、私の陳腐でありふれた感傷のために魚たちは泳いでいるのではないのに。静かな空間に見えるまぐろ水槽のなかで、残酷なショウが行われていたと知ったところで、どうせ私は水族館に行くことを止めはしないのに。

caged fishes; 2002.08.24