地獄

 重態の妊婦が救急病院をたらいまわしにされて亡くなったというニュースを、また聞いた。一時間も救急車に乗せられたままで、赤ちゃんだけは何とか助かった、という。
 ぼんやりしていてそれを見たのがTVだったか新聞だったか忘れてしまったが(多分ワイドショウだと思う)、地方ではこういうことは起こらないのだ、と誰かが言っていた。地域にひとつしか総合病院がないようなところでは、他に行くところがないことがわかりきっているから、たとえ満床でも受け入れるのだそうだ。最新の設備を誇る大病院が集まっている東京だからこそ、「うちが無理をしなくても、どこか他所があいているだろう」という発想が生まれるのだろう。
 三十代に入ってからの初産も珍しくなくなり、高齢出産をする人も増え、以前なら確実に助からなかった超未熟児も成長できるようになった。妊娠・出産は命がけ、という感覚は、正直私にはない。医療が発達し、人工授精や体外受精も可能になった21世紀の東京で、それでもこんなかたちで妊婦は命を落とすのだな、と思った。落とし穴はいつもある。より思いもよらないところに、より見えにくく巧妙に仕掛けられるから、無くなったように見えるだけだ。

 生まれて初めて正社員として雇われた職場でうまくやっていくことができず、半年で逃げるように辞めた。逃げるように辞めたから貯金もなく、奨学金やら運転免許のローンやら支払いだけはあって、あまりのんびりもしていられずに何となく働きだした。
 辛くもないかわりに面白くもない業務をたんたんと7時間こなす。派遣社員なので、どうしても立場が少し浮いている。暇潰しのように時給を稼ぎ、帰宅しても文章も書かず本も読まずブログも更新せず座椅子に崩れ落ちるように座って、ひたすら携帯端末でインターネットの巨大掲示板をあてもなくさまよいリロードし続ける。とっくに飽きているのだが、友だちにメールを打ったりましてや電話をかけたりする気力もないので、寂しさを紛らす方法が他にない。目の奥が痛むまで見続けて、重い手足をベッドへ引きずっていく。
 そうして喜びも悲しみも、楽しいことも苦しいこともなく、倦怠感だけが全身を支配して、ああ明日仕事行きたくないけど家にいてもすることないし、などと思いながら寝付くまでの間にふと、ああもう死んじゃおうか、と思う。何もかも面倒だ、逃げたい、ただもうひたすら眠りたい、そのまま翌朝目覚めたくない、というありふれた疲労感の延長線上に「死んじゃおうか」という思いは気軽にあり、お手軽な逃避の可能性になっている。私には慣れ親しんだ、懐かしい感覚だ。学生の頃、特に大学生の頃はしょっちゅう「死」の可能性を考えることで何とか生き延びていた。

 ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を見たとき、戦争しか生存の可能性がない環境で、生ゴミとして廃棄された魚の皮やはらわた(腐敗して、蛆がわいている)を食べてまで、人々が死ぬよりつらい生に執着しているのはなぜだろう、と不思議だった。タンザニアの人々だけではない、ホームレスも、ネットカフェ難民も、ギリギリで生存し、絶えず死に脅かされている人たちは自ら死を選ばない。生にしがみつく。
 そうしてたとえば部屋に引きこもり、「だらだらと甘えて」無意味に生を享受しているだけの人間のそばには、自死の誘惑が常にあるのだろう、きっと。外界のあらゆる危険から隔離された安全な自室に閉じこもって、首吊りのロープを毎日幻視しながら日々を暮らしているのではないか。無差別大量殺人、児童虐待、株価の暴落などのニュースを聞きながら。
 それはそれで苛酷なサヴァイヴなことに変わりはない。

 いつの時代も、どの土地も、幸福と不幸の配分は平等なのだと思う。一つの災厄を乗り越えれば、それが全く別の新しい災厄を呼び起こす。地獄は形を変えてゆくだけで決してなくならない。私たちの地獄は無色透明、時には恩寵に似た形さえとりながら、いつでもそこにある。

Brave New World; 2008.11.06