胡蝶(SAMPLE)

 ──恋をする夢を見た。

 少女と連れだって歩いている。見知らぬ少女だ。繁華街なのだろうか、店の軒先からしきりに歌が聞こえるなかを、連れだって歩いている。誰だろう、と訝るより先につないでいる手に気が付いて、ああそうか、恋人だ、とわかる。
笑っている彼女を見ながら、やっぱり自分は恋ができない人間なんかじゃない、今度こそは夢じゃない、と安堵する。 
 いつもそこで目が覚める。

 暗い寝室で、ミニコンポの液晶に表示されているデジタル時計の文字がうっすらと発光している。きっと、夜明けまではまだ遠い時刻なのだろう。青嗣はうんざりして起きあがった。
 寝つきが悪いのは子どものときからだが、この頃は以前にもましてひどく、初更のうちにはまず眠れなくなった。うつらうつらしても、深夜に突然目が醒めてしまったりする。朝方になってからようやく深い眠りが訪れ、昼過ぎ、ひどいときには夕方まで眠りつづけることもしばしばあった。朝起きられないのでいつのまにか大学を休みがちになり、最後に登校したのはいつだったか、もう随分長いこと通っていない。
 青嗣は外へ出た。常夜灯が整列している廊下を抜けてエレヴェーターに乗る。機械の作動音がやけに大きく聞こえる。
青嗣が住んでいる集合住宅は二十四階建てで、エレヴェーターで最上階まで上っても、屋上に出ることは出来ない。非常階段は上へと続いているが、鍵つきの扉が行くてを阻んでいる。仕方がないので、青嗣は狭い階段室の踊り場で、小さな窓から下界を見下ろす。
 こんな時間になっても灯りの漏れているビルがある。昼間ならば眼下にミニチュアのように見える街は、夜に沈んで影のように横たわっている。それでも地上がはるかに遠いことはわかる。ちらちらと揺れながら、列を為して移動している赤い点々は、首都高速を流れてゆく車のテールランプだ。
 うっとりする。
 初めてここから同じ景色を眺めたとき、青嗣は地上のあまりの遠さに愕然とした。ひざが震えて、めまいがした。激しい感情にのぼせて熱くなっていた頭は一気に冷え、飛び降りてやる、という思いは雲散霧消した。
 それ以来、やりきれなくなったり、苛立ちを抑えられなくなったりするたびにこの場所へ来るようになった。いまの青嗣は、二十四階の高さに怯えることはない。襲うめまいさえ、くらくらと心地よかった。
 ふと、目の端にひらひらした何かが引っ掛かって、青嗣は目を凝らした。青嗣がいる場所より少し低いところを飛んでいくそれは、蝶だった。ばかな、こんな時間に蝶の飛ぶはずがない、蛾の見間違いだろう、と青嗣は目を疑ったが、それはやはり蝶に見えた。場違いな蝶は、青嗣を誘うようにひらひらと飛んでいた。
 青嗣は手探りで窓の鍵に触れた。錆びついてうまくまわらない鍵は、軽く触れるだけで鉄のにおいが手にうつる。渾身の力を込めればこじ開けられないことはないのだろうが、それを遂げるだけの気力は、青嗣にはなかった。
 ここから落ちることさえ出来ない。
 ぼんやりと絶望しながら、青嗣は冷たい硝子に手のひらを押しつけて、蝶の行方を目で追っていた。

 リビングには電気が点いていて、こうこうと明るいなかで白いソファに体を沈めて春生は眠っていた。今夜は臙脂色のワンピースを着ている。首の後ろで結んだベルベットの飾りリボンがスクエアに開いた胸元でクロスして、背中にも大きなリボンがついていた。衿と大きく広がった裾まわりにはチュールレースをたっぷりあしらってある。青嗣はそっと歩み寄って、眠る弟の顔を上からのぞきこんだ。閉じたまぶたはあざやかな水色、頬とくちびるはばら色に染められていた。ていねいに施された化粧は少し過剰で派手すぎて、青嗣はいつも、ピエロの滑稽な顔を見るときと似たもの悲しさをおぼえる。
 彼が夜な夜な少女人形の格好をすることをいつから始めたのか、青嗣は知らない。ある晩青嗣が夢遊病者のように起き出して、水を飲みにキッチンへ行こうとしたところで、身支度を終えて出掛けようとしている春生とかちあった。春生はさらさらした長い髪のウイッグをかぶり、顔を塗って、扇のように広がった姫袖のブラウスに、パニエを入れてふくらませたスカートをはいていた。目があって、二人はお互い固まった。きょうだいは見つめあったまま、しばらく制止画のように動けなかった。
 なぜ、だとか、いつから、だとか、どこへ、だとか、問いたいことは沢山あるのに、いや沢山ありすぎたからか、青嗣は何も問えなかった。春生のほうも言い訳めいたことを口にしようとする様子もなく、ただ立っていた。青嗣と春生は、どちらかといえば互いにあまり干渉せずに暮らしてきたきょうだいだった。春生は兄に向かって、なぜ学校へ行かないのか、などと問うてきたことは一度もなかった。それでいて、遠方へ赴任中の両親から電話がかかってきても、青嗣の近況を適当にごまかして言わずにおいてくれていることも、青嗣は知っていた。
 青嗣はひと言ぽつりと、「似合うね」と言った。春生は驚いたように目を見開いた。彼は幼い頃から線の細い、ひ弱な体つきをしていたし、肌も青白かったから、嘘ではなかった。耳をあかくしてうつむき、青嗣のほうは見ずに「行ってきます」と言って春生は出ていった。
 それから、青嗣と春生のあいだは以前より密になった。春生は新調した服を、積極的に青嗣にお披露目した。そのブーツに足が入ったお客様はあなたが初めてです、皆それを欲しがって、履いてみようとするのだけれど、そこいらの象みたいな足をした女の子にはそれは細すぎて履けないのですよ、でもあなたにはとってもよく似合ってます、そんな風に店員に言われてつい騙されて買ってしまったと嬉しそうに言いながら、細い足にぴったりした黒いスエードのブーツを履いてみせてくれたこともあった。青嗣は青嗣で、同じ少女が出てくる夢を見ることを、春生に話した。夢のことは、春生以外の誰にも打ち明けていなかった。

 青嗣と対照的に、春生はいつでもどこでもぱたりと死んだように寝入る子どもだった。それは今も変わらない。ソファとローテーブルの他には液晶TVと観葉植物ぐらいしか置かれていないがらんとしたリビングで、ぐったりと倒れて眠る春生は、死体かマネキンみたいだった。青嗣が寝顔を眺めているうちに、春生はふっと目を覚ました。
「おかえり。どこ行ってたの」
 その問いをはぐらかして、青嗣は言った。
「春、さっき蝶を見たよ」
「こんな季節のこんな時間に飛ぶ蝶なんてあるかなあ。蛾じゃないの」
「そう思ってよく見たら、蝶だったんだ」
 ふーん、と呟いて、春生はそれ以上青嗣を疑うことはせず、僕も見たいな、と無邪気に言った。
「春も随分遅かったね。今日、バイトの日だっけ」
「そう。一時間くらい前に帰って来たんだけど、青ちゃんよく寝てたから気がつかなかったでしょう。それで着替えて、散歩して、戻ったら今度は青ちゃんがいないから」
「明日も、学校?」
「そりゃそうだよ、まだ水曜日だから」
 春生は笑った。彼は青嗣が起床するころ帰宅する。それから週に三、四回は、制服からシャツとジーンズに着替えてアルバイトに出掛けていく。夕食もアルバイト先のカフェで済ませ、終電で家に帰ってきてから、今度は少女に化けてふらふらと散歩に出る。床に就くのはいつも空が白みはじめてからだ。
 学校、というひとつの場での生活もこなせずに消耗して、部屋でうつらうつらするのが精一杯の青嗣には、春生の活力が信じられなかった。それを問うと、春生は笑って「好きなひとがいるから」と答える。その答えを聞く度に、青嗣は鈍い痛みをおぼえる。
「きれいな人なんだ。だから僕も、側にいて恥ずかしくないくらいきれいになりたい。で、きれいになるにはお金がかかるから、服とかアクセサリとか化粧品とか」
 照れたように話す春生が羨ましいような、後ろめたいような気分で青嗣が黙っていると、「青ちゃんは、いいよね」と春生は付け加える。「青ちゃんならきっと、何もしないでそのままでも、あの人の前に出られるんだろうなあ」
 はっきりしているがやさしい顔だちで、素のままなら実年齢より少し幼い少年に、化粧をすればほぼ完全に少女に見える春生が、何を思ってそんなふうに言うのか、青嗣にはまるでわからない。青嗣は春生ほど目鼻立ちがはっきりしていない。父に似たので、母親にそっくりな春生とはあまり似ていない。曖昧で、覚えにくい顔と自覚する自分の顔を、青嗣は好きでなかった。春生に意図するところを問い質しても、曖昧に笑うばかりで、要領を得ない答えしか返ってこない。
「寝ちゃってたんだ。気がつかなかった。いま起きなかったら、朝までこの格好で寝てたよ、きっと」
 春生は伸びをした。広がった袖のせいで、手首の細さが強調されて折れそうに見えた。
「風邪ひくよ」
「青ちゃんを待ってたんだよ。帰ってきて青ちゃんがいないと、ちょっと怖い。どきっとする」
 さりげなく言う春生に、青嗣のほうがどきりとする。
「……春が夜中に出歩くのと一緒だよ」
「でも……、青ちゃんは何だか……、」
 言葉を切って、春生は青嗣の目を真っ直ぐに見た。そこだけは青嗣に似て、少しつり目で切れ長の瞳は、アイシャドウとマスカラに縁取られてひとまわり大きく、視線は強かった。
「ちゃんと帰って来てよ、青ちゃん」
 ああ、やっぱり、どこへも行けない。寂しい気持ちで青嗣は肯き、おやすみを言った。部屋を出ようとして、ふと思い出して振り向き、「春、それ似合ってるよ」と言うと、春生は嬉しそうに笑った。

(後略)