深 緑 (001:クレヨン) 

 ピンポンピンポンと立て続けに二度鳴らされたチャイムのあとに、どんどんどんとドアを叩かれ、やながわサーン、と怒鳴られてようやく私は目を覚ました。慌ててとび起きる。留守番して荷物をちゃんと受け取ってね、とあれだけ念を押されていたのに、いつの間に私は眠ってしまったのだろう。
 ドアを開け、重いダンボール箱を玄関に運び入れてもらい、伝票に受け取りの判を捺そうとしたそのとき、右手に持っているものがシャチハタでなくクレヨンであることに気付いた。

 挙動不審になりながらも居間にかけ戻って三文判を探し出し、愛想笑いを浮かべながら押印した私に、ペリカン便のおじさんははっきりと不思議そうな顔をしながら去っていった。
 最近、私はどうも危なっかしくて困る。小説を書くためのメモ用に使っている大学ノートをなくして以来かも知れない(私は新しいウェブサイトをたちあげようとしていて、「文字書きさんに100のお題」に挑戦しているのだが、ひとつめのテーマから躓いていつまでたってもサイトを公開できずにいる。焦っている矢先にノートをなくしてしまい、やきもきしながら探している)。牛乳を飲もうと牛乳びんを持ちあげてびんの下に敷いてあったドラえもんのコースターに牛乳を注いでしまったり、座椅子に寝転がっている弟を呼ぼうとして飼いネコに話しかけるネコなで声で「にゃーん」と呼びかけてテレビの上にいたネコにけげんな目で見られたり。それで今度はハンコのかわりにクレヨンで宅配便を受け取ろうとしただなんて、残暑のあまりどこかおかしくしただろうかと我ながら心配になってしまう。
 それにしても何だってシャチハタとクレヨンを間違えたのだろう……。情けない思いで三文判をひき出しにしまった。そして考える。そもそも私、いまクレヨンなんて持っていたっけ、どこから出してきたんだろう。
 確か私は、今日もなくしたノートを探していた。そのうちに眠ってしまって、起きて、びっくりしてそのまま玄関へ出た。そして、持っていたクレヨンを伝票に押しつけようとしたのだ。目覚めたとき、私はもう右手にクレヨンを握りしめていた。
 てのひらのクレヨンをまじまじと見る。ちびて、胴のラベルも破られていた。かろうじて「かみどり」という文字が読める。色から察するに、たぶん、元は「ふかみどり」だったのだろう。ふかみどり。

 幼稚園で使う、みんなお揃いの十二色のクレヨンにはふかみどりはない。きみどりと、みどりしかない。ふかみどりが入っているのは、二十四色入りのクレヨンだ。確か、ねだって買ってもらったのだったと思う。
 あの頃の私はみどり色とお絵かきが好きだった。誰も持っていない新しいみどり色を手に入れたことが嬉しくて、花や、家や、象や、なんでもふかみどりに塗った。まいちゃんはみどりが好きなんだね、と父も母も保母さんたちもほめてくれたので、私は得意になってますますふかみどりを使った。
 けれど小学校にあがって、図工の時間にふかみどりで塗りつぶした空を「ふかみどりばっかりじゃつまらないわよ」と若い女の担任に注意されて以来、何でもかんでもふかみどりで塗るのはやめた。なるべくいろいろな色を使って塗るように心がけた。ふかみどりを使いすぎてはいけないと気をくばるようになると、それまでただ描きたいように描いていたのが、どんなふうに描くのがよいのか気になってしょうがなくなり、なんだかまごついてしまって、次第に私は絵を描かなくなった。大事にしていたクレヨンもどこかへなくしてしまった。

 そのクレヨンが、たぶん、いま私の手に載っているふかみどりなのだった。私は二十四色のクレヨンをなくしたことも、そもそもそれを買ってもらったことも、お絵かきをやめたことも、そもそもそれが好きだったことも、きれいに忘れていた。ぜんぶ、突如出現したふかみどりのクレヨンを見つめているうちに、いちどに急に思い出したことだ。思い出してみるとどれも大切な思い出で、そんなことを忘れたままでぼんやり暮らしていた自分が情けなく、責めたくなった。
 そうだ、私は絵かきになりたかったのだ……。感傷が津波のように押し寄せてきて、いてもたってもいられなくなった。私は部屋を大またで三周してから、本棚のいちばん隅に新品のまま何年も放ってあるスケッチブックを引っ張り出した。引っ張ったいきおいで、ほこりと一緒になにかが飛び出してきて、ごちゃごちゃと散らかった床に落ちた。
 小さな、それこそちびたふかみどりと同じくらいの背丈の、まるっこいカメレオンだった。塩ビの人形かなにかか、と目を凝らすと、カメレオンは短い手足をじたばたさせてぴょんと起きあがった。とびでた目玉にぶ厚い眼鏡をかけて、背広なんか着込んで、かしこまっている。
 私は右手にふかみどりを握りしめ、左手にスケッチブックを持って突っ立ったまま、しばらくカメレオンと見つめあった。どこかで見たような、と少し考えて、子どもの頃よく読んでいた本の挿し絵にそっくりなカメレオンがいたのだと思い当たった。あのお話も、あるときふと入っていけない、と感じてしまって読むのをやめてから、ずいぶんになる。
 カメレオンは私の手のなかのふかみどりに気が付くと、あああ遅かった、としゃがれた声をあげて頭を抱えた。
「見つかっておりましたか」
「えっ?」
「あなたがそれを拾わないうちに回収するのが私の仕事だったのですが、間に合わなかったようですな」
「回収?」
「そうです。そのクレヨンは、とっくの昔にこの部屋からなくなっていたものでしょう。そんなものがいまここにあってはいけません。いけないのですが、それがどういうわけかちょっとした手違いで」
 まったくけしからん、あとできつく言っておかねば、などとカメレオンはひとしきりブツブツ呟いていたが、まるまった背を出来るだけ伸ばして私に向き直った。
「そういうわけで、やむなく事後処理に参った次第です。どうぞ、それをこちらに返してください」
「返すって……だって、これもともと私のものですよ」
 私はふかみどりをぎゅっと手の中に握りこんだ。せっかく見つかった大切な思い出の品を、そう簡単に手放せるものではない。だいたい、話の内容もちんぷんかんぷんなのに、はいそうですかと納得できるはずもない。
「お気持ちはわかりますが、そこをなんとか」
「なんでこのクレヨンがいまここにあっちゃだめなんですか。べつに、構わないと思うんですけど」
 だめなのです、困るのですよと、カメレオンは激しく手を振った。
「そのクレヨンがこの部屋で占める場所のぶんだけ、現在あなたに必要なものが存在することができなくなってしまいます。あの、大学ノートが」
「大学ノートって、私がこの前なくした小説のメモ用の」
「そうです。今のあなたに必要なのはあのノートです。どういうわけだかあのノートが私たちのところに落ちてきて、かわりにそのクレヨンがあなたの部屋に出てきてしまった。あってはならないことです。私たちはあなたにあのノートを返したい。しかしそのためには、そのクレヨンを渡して頂かないと」
「どうして、そのままノートを返してくれる訳にはいかないんですか?」
「あなたの世界は、少なくともあなたが意識してコントロールできる世界は有限だからです。いまあるあなたの部屋に、クレヨンとノートの両方を入れられるほどの容量はないのです」
 その言葉は鈍く、しかし確かに私を傷付けた。
「……だから、古いものは捨てていかなければいけないと言うの」
「古い新しいは関係なく、あなたにとって必要でなくなったものを捨てていくのですよ。正確には捨てていく、ではなく置いていく、ですが。そのクレヨンはもうあなたに何もしてあげられないし、あなただっていまそのクレヨンのために出来ることなんかないはずです」
「そんな……」
「それに、今の今までそのクレヨンのことなんか忘れていたでしょう? 実際にはなくしたことさえ忘れてしまうんだから、つらいことなどないのです」
 カメレオンはやや早口なものの、丁寧で親切だった。けれどその言葉はいちいち私に刺さり、私をかなしくさせた。カメレオンの言っていることは正しく、私にも理解できたけれど、かなしみをどうすることも出来ず、私はふかみどりを握る手に力をこめた。そうしている間にもカメレオンは必死にお願いですから、とか聞き分けてください、とか言い続け、私はだんだん腹が立ってきた。
「でもさあ、そもそもあなたたちの手違いなんでしょ。それなのになんで、私がお説教されてかなしくならなきゃいけないわけ」
「いやそれは、誠に大変申し訳なく」
「クレヨン一本ぶんの隙間ぐらいどうにかしなさいよ。そっちのミスなんだからそっちで片付けてよ。私は知らない」
 カメレオンはむずかる幼児を見るような、困り果てた表情で黙った。自分でもこれは八つ当たりだとわかっていたので、少し言い過ぎたと思って、私もうつむいた。それでも、ふかみどりを握った手をひらくことは出来なかった。
 沈黙がつづいた。耐えられなくなった私が、あのう、と言いかけたとき、「わかりました」とカメレオンが重々しく言った。
「わかりました。そこまでおっしゃるからには、あなたは相当そのクレヨンに未練があるのでしょう。あなたの気が済むまで、そのふかみどりのクレヨンはお預けします。どうぞ、やり残したことをおやりになって下さい」
「やり残したこと?」
「何かあるはずです。だから、気持ちでは放してもいいと思っていても、そのクレヨンを手放せないのでしょう」
 あるだろうか。私がこのふかみどりでしたいこと。そういえば、私はスケッチブックを引っ張り出した。ということは、
「なにか描こうと思ってたんです。……でも、なにを描けばいいのかは、わからないんですけど」
 なぜかうしろめたくて、最後のほうは口の中でモゴモゴと言った。カメレオンはふむ、とうなずき、眼鏡を押しあげてから、言った。
「じゃあ、ただ塗ればいいんじゃないのですか」
「塗る?」
「さよう、そのスケッチブックでも、その本棚でも机でも、どこでも好きなところを好きなだけ塗るというのはいかがですかな」
 とてもいい考えだった。

 前々から雲の模様の壁紙を貼りたいと思っていた。
 少しベージュがかった壁いちめんに、私はふかみどりで雲を描いた。背景の空は、ふかみどりでどんどん塗った。剥がしわすれたGLAYのポスターが一枚貼ってあったが、構わずに全部塗りつぶした。
 壁じゅうをふかみどりの空にし終えたときには、もともとちびていたクレヨンはすっかり小さくなっていた。私が満足してうなずくと、カメレオンは重々しくうなずいた。

 ピンポンピンポンと夢の中でチャイムが聞こえ、ああ誰を呼んでいるんだろううるさいなあと思う。それが私の家のチャイムであることに気付いて私はとび起き、慌てて玄関のドアを開けたがもう誰もいなかった。ドアポストから不在票を抜き取りながら、私は少し憂うつになった。荷物が届くからちゃんと受け取ってねとあれだけ念を押されたのに。いつの間にかぐっすり眠ってしまっていた。
 部屋に戻ると、今さっきまで私が転がっていたベッドの枕もとに、大学ノートが落ちていた。なくしていた、小説のメモ用ノートだ。こんなところにあったのに、どうして今まで気が付かなかったのだろう。不思議に思いながらも、ノートを開いた。
 一ページ目の最初の行に、「ふかみどり」という走り書きがある。こんなメモ、いつ書いたのだろう。覚えていない。けれどそれを見た途端、さっきまで見ていた夢を思い出した。ふかみどりのクレヨンで壁いっぱいに空を描く。カメレオン総理がいた。そういえば私はお絵かきが好きだったような気がする。
 書けそうだ、と思った。ずっとうんうん唸っていた「文字書きさんに100のお題」の最初のテーマを、やっと書けそうだ。これでサイトも公開できる。始められる。
 私は机に向かって姿勢を正し、書きはじめた。

 最初なのだし、明るく楽しく読み手に夢を与えるような話を! と思っていたのですが……。とても時間がかかってしまって、もうはじまらないんじゃないかと何度も思いました。なんとかはじめられてよかったです。
 クレヨンと言ったら私は『クレヨン王国』シリーズなので、カメレオン総理はクレヨン王国へのオマージュ、のつもりです。オマージュっていう言葉はちょっとおこがましいですが。 /2003.09.28.

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