線 路 は つ づ く 、ど こ ま で も 

 電車は混んでいた。一つだけぽっかりと座席が空いていて、少女はそこに座ることができたが、立っている乗客も随分いた。
 やっぱりこれが終電だったんだ、さっきは時計を見間違ったんだ、そう自分に言い聞かせながら少女は周囲を見渡した。少女と同じように着飾り、同じように濃いアイシャドウやマスカラが落ちかけて、同じバンドのロゴが入ったビニールバッグを持った女の子達が大半だったが、関係なさそうなスーツ姿や学校の制服もところどころに見えた。
 終電を見送って、後楽園駅のホームでぼんやりしていたところに、なぜか当たり前に入線してきた電車に、終電は行ったはずなのにと訝りながらも、反射的に少女は乗ってしまったのだった。行き先を確かめなかったと気付いたのは、発車してからだった。

「今日は、お疲れ様でした」
 声をかけられて振り向くと、少女の右隣、座席のいちばん端に座っている痩せた女が微笑んでいた。裾がレースで縁取られた黒のロングスカートという格好と、揃いのビニールバッグで同類だとすぐに知れたので、少女も小さく会釈を返した。
 女は「私、ユメミっていいます」と名乗った。高校生の少女より四つか五つ年上のようだった。少女の方も「りあ、です」とハンドルネームを告げた。
「……よかったですね」
「えっ?」
「ライヴ、いいライヴでしたね」
 はい、と答えようとした途端、乾いていた瞳の表面がじわりと濡れるのを感じて、少女は黙って頷いた。ひと呼吸おいて、ゆっくり口を開いた。
「迷ったんだけど来てよかったです。ほんとによかった。最高にカッコいいあの人達を見られて……よかった」
 喋りながら、少女は、耳の奥でまだ止まない歌声が大きくなるのを聞いた。あれから何時間も経っていないのに、もうライヴの記憶は感覚だけ残して曖昧に溶けはじめている。目覚める直前まで見ていた夢を、すぐに忘れてしまうのに似た喪失感。
「……終わっちゃったんだわ」
 深呼吸をするように深々とユメミが言った。耐えられなくなって、少女は下を向き、落ちてくる髪で顔を隠しながら目元をこすった。
 その通りだった。終わってしまったのだ、すべてが。

 三ヶ月ぐらい前のことだった。公式発表より一日早くインターネットでそのバンドの解散を知った少女はその晩眠れなかった。夜が明けてTVをつけると、どのチャンネルもワイドショウで「人気ロックバンド解散」のニュースを流していた。九年目の解散。ファン号泣。音楽性の違い。今後はそれぞれソロで活動か。そんなコメントの断片を、少女はぼんやりと聞いていた。寝不足で頭が痛かった。何年も生活の中心だったそのバンドがなくなってしまうという状態を、想像できずにいた。

 電車が停まって、片耳にピアスを五つも六つもつけていた人が降りていった。少女は見るともなしに目で追っていて、駅舎の向こうに遠く輝くネオンを見つけた。いつ、この地下鉄は地上に出たのだろう。駅名を読みとろうとしたが、電車が動き出すと駅はあっという間に後ろへ流れていって、黒い窓にがらがらの車内が映るばかりだった。
 ユメミとの話に夢中で少女は意識していなかったが、沢山いたはずの乗客は皆どこかで降りたらしく、車内には少女とユメミの二人きりになっていた。人の気配が薄らいだせいか、気温まで下がったように感じられる。ユメミが呟いた。
「……皆、帰っちゃいましたね。羨ましいな」
「あの……この電車、いま、どこを走ってるんですか?」
 おそるおそる少女が訊ねると、ユメミは細い瞳を軽く見開いた。
「……りあさん、知らないで乗ったんですか」
「あたし、丸の内線の終電だと思ってたんですけど……違うんですか……?」
「ああ、初めてなんですね」
 ユメミは微笑を浮かべて穏やかに言った。
「終電のあとにぼーっとしてると、ときどき、これが来るんですよ。どこへ向かってるのかは全然わかりません、でも、多分、終点はないです」
 がたん、がたん、という規則的な音をBGMに、ユメミは静かな声で話す。
「いつ、どこに来るのかもわからないから、乗ろうとして乗れる訳ではないけど、帰りたくないな、と思ってると乗れるみたいです。りあさんも、そうだったんじゃないですか?」
「え……?」
 少女は考えてみた。後楽園駅のベンチで、あのとき、どんな気持ちだっただろう。多分、空っぽだった、と少女は思った。何もかもをずっとそのままにしておきたかった。動きたくなかった。動くことで、ごく僅かでも何かが変わってしまうことが嫌だった。
 帰りたくはなかっただろう。本気で帰りたければ、自宅に電話して車で迎えに来てもらうこともできた。明日は学校があるし、そうするべきだったのだろう。そんなことは頭を過ぎりもしなかった。家に帰って寝て起きて学校へ行って、なんて別の世界の出来事のようにしか思えない。
「そうかも知れない……」
「私、中学生のときに初めて乗ってから何度か乗ったことがあるんですけど、こんなに混んでるの初めてで、びっくりしました。ああ、皆まっすぐは帰れなかったんだ、終わらせられなかったのは私だけじゃなかったんだ、って……でも、やっぱり私は取り残されてしまったけれど」
「皆、どこで降りたんだろう……?」
「さあ、乗ってきた駅じゃないですか。私はいつも乗ったところで降りるから」 
 少女はガラスに額を押しつけて目を凝らした。暗くてよくは見えないが、延々と続いている黒いものは、海のように思えた。
「じゃあ、こうして乗っていれば、いつかは後楽園に戻るのかな……」
「ええ、降りたくなれば」
「……降りたくなかったら、いつまででも乗っていられるの……?」
「……それは……わからないけれど、長い時間乗っていられるのは確かですよ。ほら」
 ユメミは細い手首を少女の目の前に差し出し、銀の華奢なアクセサリーウオッチの文字盤を示した。
「時間の進み方が違うの」
 見づらいが優美なデザインの針は、終電の時刻からほとんど動いていない。
「……止まってる……?」
「完全に止まってはいないですよ。すごくゆっくりなだけです。普通の時間の三倍……四倍くらい遅いのかな、私も計ってはいないから大体の感じですけど」
 ユメミは自分でもアクセサリーウオッチを確かめて、
「十五分ぐらいか。実際には一時間くらい話していたと思うけれど」
 ならば、この電車の中では夜が明けるまであと十時間以上もあることになる。少女は安堵して、同時にその感情を少し不思議に思った。場所も、時間さえも不確かな電車に乗ってしまったというのに、時間がある、まだ、このままでいていい、という安心感の方が不安より強いのだった。
「ユメミさんは……まだ、降りないんですか」
 少女が問うと、ユメミはゆっくりと首を横に振った。
「まだ……。まだ、私には時間が要ります。……帰れません」
「あたし、もうちょっと、話していてもいいですか?」
 ユメミは笑って頷いた。

 ユメミと色々な話をした。バンドの話題が多かったけれど、自分たちのことも少し話した。ユメミは、高校のときあまり学校へ通えなかったと言った。
「仲の良かった友達に次々に恋人が出来たんです。気が付いたら私だけ取り残されちゃって。ある日一人で家に帰りながら、すごく惨めな気持ちになったんです。私、クラスの男の子とか、部活の先輩とかに全然興味がなくて、考えることといったらバンドのことばっかりで。なんだか……おかしいんじゃないのって、どうしようもない事ぐるぐる考えながらこの電車に乗ったこともあります。ずっとわあわあ泣いてたんです」
 低い声で淡々とユメミは話したが、少女は聞いていてどきりとした。躊躇いながら「……わかる、ような気がする……」と言った。
「あたし、あの人のことほんとに好きなんです。顔や歌声もそうだし、手とか、背中とか、仕草とか、雰囲気とか、全部好きなんです。馬鹿みたいだけど……好きすぎて、寝る前に泣けてきたりするんです、あたし何でこんなに好きなのかなって」
 だんだんと口調が早く、強くなっていたことに気付いて少女は言い止めた。耳たぶがあつかった。懺悔するように、少女は小さく呟いた。
「……恋愛感情じゃないかって怖くなる」
「私は、恋だったんだと思う」
 さらりとユメミが言った言葉に、少女は、え、と顔を上げた。
「私ね、あの人達に出会ったときから、大学を出て今まで、結局、一人も男の人を好きにならなかったんです。どこか壊れてるのかも知れないけど、私は、きっと彼に本気で恋をしてた。ずっと否定しようとしてたけど、でも、そうなんです」
 ラメのマスカラをのせた長いまつ毛を伏せて、ユメミは続けた。
「私は二十四時間あの人達のことを考えてました。あのバンドが全部でした。……明日から何を考えて生きていけばいいのか、私はそんなこともわからないでいる……」

 いつのまにかどちらからともなく口数が減って、沈黙が多くなった。睡魔が不意に少女を襲った。それまでは眠いなどと思わなかったのに、一度あくびを噛み殺すと眠気は急速にやってきた。 「眠ったら?」  ユメミがそっと言った。少女は素直に従って、腰掛けたままで上体を座席に倒した。すうっと気が遠くなる。  ずっとこうしていられたらいい。そう思いながら、少女は眠りに落ちた。

 うっすらとあかるさを感じて目を開けると、夜が明けかけていた。陽はまだ昇っていなかったが、闇は薄らいで、灰青の紗がかかった街並みが車窓からはっきり見えた。
 少女は体をおこした。隣を見ると、ユメミは手すりに頭をもたせかけて目を閉じていた。MDのイヤフォンをはめたままで、リモコンの液晶がかすかに発光している。エンドレスリピートされているのだろう。
 随分深く眠っていたらしく、頭はすっきりと冴えていた。外を眺めたり、ユメミの横顔を見たりしているうちに、少女は落ち着かなくなってきた。両親は帰ってこない自分を心配しているはずだ。学校にも行かなくちゃいけない。このまま、乗っている訳には、いかない。
 唐突にユメミが目を開けた。少女と目が合うと、彼女は淡く微笑んだ。
「おはようございます」
「あの、ユメミさん、あたし……」
「……そろそろ、降りるんですか?」
 相変わらずユメミの口調には起伏がなかったが、寂しさとも諦めともつかないものが僅かににじんでいた。少女は答えるかわりに問い返した。
「ユメミさんは……」
「私はまだ、だめです。もうちょっと乗っていきます」
 柔らかく、しかしはっきりと、ユメミは言った。
「え……もうちょっとって、どのくらい……」
「あのバンドはもうないという現実を私が受け容れて、その現実に戻ろうと私が思えるまで。どのくらい時間がかかるかはわかりませんが、それまでです」
「……ここに、ただ、いるだけで、そんなこと出来るんですか?」
 昨夜が嘘のように、少女は帰らなければという思いにかられていた。
「一緒に降りようよ、ユメミさん。降りて、帰らなきゃ、どうしようもないよ」
「どうしようもなくないです、だって、あなたは現実に戻る気になったじゃないですか、りあさん。ここに一晩いただけで、帰ろうって言えるようになったじゃないですか」
「そうだけど……でも……」
 ユメミは遠くを見た。
「永遠にここにいては、なぜ、いけないの」
 少女は言葉を亡くした。答えられなかった。ユメミはほんとうに、終点のないこの電車にいつまでも乗っているつもりかも知れない、その想像は少女をたまらなくさせた。けれどもそれがなぜいけないのかと問われれば、理由はわからないのだった。
 硬い空気を溶かすように、ユメミがふっと笑った。
「そんな、泣きそうな顔しないでください、言ってみただけです。大丈夫、いまは降りられないだけで、私もちゃんと降ります。絶対に」
 少女がユメミの顔を見ると、ユメミもまっすぐ少女を見返した。
「いつかは、必ず、いまのりあさんみたいに降りたくなるんです。いつもそうだった。このままずっと乗っていよう、もう二度と帰らないって決めるのに、降りてしまうんです。昨夜話した、バンドのことしか考えられない自分が辛くて、この電車の中で泣いたあのときも、死にたくてすごく長い間乗っていたけど……それでもやっぱり帰ろうっていう気分になった。……きっと、そういうものなんですよね。私は、人より時間がかかるっていう、それだけのことです」
 完全に朝になっていた。光が、二人しかいない車内に差し込んでいる。ユメミは車窓に目を向けた。
「りあさんが寝てるあいだ、海のそばを走ってたんです。それで、あの曲、海を見ながら聴くと最高にいいってりあさんが言ってたあの歌を聴きながら、海を見てました。ほんとに良かったですよ。それを、もう一回やったら、気が済むかも知れないから」
 窓が急に黒一色になった。地下に入ったのだ。次は、後楽園、後楽園、聞き慣れたアナウンスが聞こえる。少女は動揺した。
「どうしよう。あたし、ユメミさんを取り残したくないのに……」
 一瞬びっくりしたように固まったユメミの表情が、ゆっくりと笑顔に変わった。
「……ありがとう、りあさん、心配かけてごめんなさい。だけど、こういうのは一人一人違って当たり前だから、気にしないでりあさんは先に行ってください。後から戻りますから」  ユメミは玉虫色のジャンポール・ゴルチエのバッグからアルミのカードケースを取り出し、名刺を一枚抜いて少女にくれた。
「今度は、普通に会いたいですね」
 ありがとうと礼を言って名刺を受け取ると、少女の気持ちは不思議と少し落ち着いた。
「……この電車に乗れて、ユメミさんに会えて良かったです」
「私も、りあさんと話せて楽しかった」
「あたし、ユメミさんのこと待ってますから、また、話してください」
 ユメミは頷いた。電車が停まった。間違いなく後楽園駅だった。
「さようなら」
 少女はホームに立って、ドアが閉まるのを見送った。手を振るユメミを一人乗せて、電車はあっさりと走り去った。何のへんてつもない地下鉄のホームに、少女はぽつんと立ち尽くしていた。

 しばらくして当たり前に来た丸の内線で御茶ノ水まで行き、中央線に乗り換えた。早朝の電車にも結構乗客がいることが少女には意外だった。
 腕時計は何事もなかったように正しく時を刻んでいる。すべて夢だったのだ、と言われれば信じてしまいそうに、何もかもがあまりに日常の続きだった。
 少女はユメミに貰った名刺をじっと見た。「ユメミ」というハンドルネーム、携帯電話番号、メールアドレス、その下に小さく本名もプリントされていた。
「佐々木 弓」
 あの電車はいまどこを走っているのだろう。少女は、イヤフォンを耳に、細い体を軽く捻って、車窓からどこまでも広がる青い海を見ているユメミを想像した。それは綺麗な絵で、まるで夢のように思えるけれど、夢ではないのだ。ユメミの本名を見つめながら、少女は噛みしめるようにそう思った。
 明日、ユメミに電話をかけてみようと少女は思いついた。繋がらなかったら、その次の日に、それでもだめならまた次の日に。そうしてユメミが帰ってくるのを待とう。そのうちにきっと日々は過ぎていく。
 朝日が、窓ガラス越しに少女の背中を照らしていた。

 どこかの高校の演劇部が演った芝居がずっと忘れられずにいます。砂漠の砂の中で、種のまま何百年も雨を待ち続けて発芽する植物の話で、確か顧問の先生が書いたオリジナルの台本でした。待望の雨が降り、種たちは皆希望に満ちて地上に出ていく準備をするのですが、ひとつだけ、怖いからまだ外に出たくない、という種がいるのです。仲間達が「怖くなんかないよ」とか「ぼくたちがついてるじゃないか」とか言うのですが、その種は「次の雨を待つ」と言い張ります。それでも結局は「いつ降るかわからない次の雨を待ってなんていないで、ぼくらと一緒にいこう、皆で一緒に芽を出そう」という他の種たちの説得に負けて、勇気を出して地上に芽を出す、めでたしめでたし、というストーリーだったと思います。
 私はその結末をどうしてもハッピーエンドだと思えませんでした。このお話を書きながら、ずっとそのことを考えていました。これが、あの芝居のテーマに対する私なりの答えです。

 ものごころついた頃からお話を書いている、つもりですが、もしかしたらこれが処女作なのかも知れません。場所を与えてくださった穂崎さんに感謝致します。 /2002.06.18.

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