エ ト ラ ン ゼ 

 大好きな美術館があるから、とその街に住むことにした理由を正直に話すと大抵笑われた。実際に暮らしはじめて、たしかに美術館には歩いていけるが、スーパーマーケットは少し遠くてしかもあまり安くないことには、不満がないわけではなかった。
 ポンピドゥー・センターの企画展で高校生の私を現代美術に出会わせ、その後も何度も通ったその美術館は、この数年は集客のためにアニメや漫画をテーマにした展覧会ばかりで、近所にあってもそれほど行く機会はなかった。駅から美術館までの通りには古本屋やおいしい蕎麦屋、レトロなカフェ、アンティーク着物の舗などが並び、かつて歩くたびにこんなところに住みたいと思ったのだけれど、十年前は列ができていた蕎麦屋はすっかり味が落ちて、閑古鳥が鳴いていた。
 住人になろうとしてなれなかった土地は、外から訪れて憧れていたときよりずっとよそよそしくなるのだと知った。もう帰るわけでもなく、ただ後始末のために向かうとき、わずかな期間とはいえ毎日そこで寝起きして職場に通ったのだとは思えないほど、街は他人の顔をしていた。

 手をつないで散歩した日曜日の公園でキャッチボールをする親子を眩しく眺めた。
 東京の海側の街で、恋人と暮らして、結婚して家庭を持ってみたかった。私はきっと本気で、そう思っていた。

 オートロックの暗証番号をたったひと月で忘れてしまって焦った。借りていた部屋は鉄筋造りのアパートの二階、南向きの真四角で使い勝手の良い間取りだった。大家さんもやさしかった。
 引越の準備をしなければならないのにどうにもこの部屋にいるとぼうっとする。ダイニングの真ん中に立ちつくしたり床に座り込んだり、一か月も人の出入りがなかったせいでエアコンをかけてもなかなか暖まらない空間で無為に過ごして、身体が芯までつめたくなってしまう。未明から大雪になると天気予報は告げ、今夜も痛いほどに寒い。食事もあまりまともに摂っていなかったけれど、食べて力をつけて働かなければいけないから、今日はカップ麺にコンビニおにぎりはやめて、オリジン弁当で明太子カキフライ弁当を買った。出来たてを渡してもらったのに、十分歩いて部屋に着く頃にはすっかり冷めてしまっていた。温めようか一瞬迷い、結局そのまま食べた。

 こんなところで何をしているんだろう。
 オリンピックの開会式が始まるのに。
 雪が降る前にみんな急いで家に帰っているのに。

 トースターとして使っていた電子レンジの中に、まわりに、パン屑がこまかく落ちている。家を出て一人暮らしを始めるために買った私の電子レンジの、白い回転皿に見慣れないシミがこびりついていて、こすっても落ちない。同居していた恋人のこういう無頓着なところが気になって、だけど男の人なんてみんなそんなものなのかも知れないし、会社で一緒にお昼ごはんを食べる女の子たちだって給湯室のレンジをまめに拭いているところなんて見かけないし、私が神経質すぎるんだと思って言えなかった。
 私が部屋を出ていったあとも、二人でいたときと同じように恋人は毎朝パンを焼いていたのだろうか。私が暮らしていたワンルームからそのまま持ってきた冷蔵庫、こたつ、マグ、ナイトメアー・ビフォア・クリスマスのティッシュケースカバー、私のものであふれているのに、ここは私の家ではなかった。私はこの家の住人になれなかった。
 だから帰ってくることができなくなった。

 結婚して家庭を持ってみたかった。そしてそれ以上に、私は私のままでいたかった。
 どうして自分には出来ないとわかっていたことを、出来る気になってやろうとしてしまったのだろう、何度も何度も悔やむけれど、私はそれをやりたかったのだ。ほんとうに、心から、やりたくて、始めた。
 だから出来なかったとわかって、引き払うときがこんなにも苦しい。

 早く新しい部屋へ移りたい。そこで一人で、新しい生活をする。
 そのことだけを考えて、もくもくと段ボール箱をいっぱいにする。
 

etranger; 2014.04.20

>>戻る