デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド 

 三月十一日の地震のあと、東京の混乱ぶりを某匿名巨大掲示板で「エア被災」と揶揄しているのを見かけた。物理的なダメージはないに等しいのに大騒ぎしやがって、というニュアンスだったが、うまい言い回しだなあと思わず感心してしまった。
 確かにビルが倒壊したわけでも首都高が寸断されたわけでもなく、ライフラインも生きている。ただ正確に分刻みだった電車の運行が乱れ、種類も量も豊富に揃えてぎゅうぎゅうだったスーパーマーケットやコンビニエンスストアの棚が空になり、ネオンもショウウィンドウも消灯して繁華街が暗くなった。催事の中止も相次いだ。奪われたのは最低限度の生存を脅かさない余剰の部分、あるいは娯楽的な要素でしかないのだが、それこそが「東京」の本質だったのではないかという気がしてしまう。
 実際に私が暮らす街とはかけ離れた、イメージの「東京」。
 そして非実在の東京のエア被災の決定的な象徴が、私のなかでは東京ディズニーランドの休園だった。千葉の舞浜にありながら「東京」の名を持つ、夢と魔法の王国。

 ディズニーランドに興味がない、と言う友人に、どうして? 楽しいよ、と訊ねたら「あの夢と魔法が『本当に本当』だったら行くよ」という答えが返ってきて、成程、と納得してしまったものだ。
 そこには、非現実的な世界観の完成しているバンドに惹かれながらもどこか怖くて近づけず、自分のいる日常と地続きに見えたGLAYに夢中になった十代の私と通じるものがあるように思う。「どうせ正体は女なんだから」と失望することを怖れて宝塚を避けたり、若くかわいい少年たちが過剰なほどに着飾って宙を舞うジャニーズのステージを「やりすぎ」と笑い飛ばそうとしたりすることも、基本的には同じなのではないか。
 つくりこまれた虚構で上手に遊ぶのは難しい。夢の世界の完成度が高ければ高いほど、帰らなければならない現実との落差は大きくなるからだ。

 三月の終わり、実家でTVを観ていたら、嵐の番組にミッキーやミニー、ドナルド、チップとデール、グーフィー達が勢揃いでゲストに来て、一緒に歌い踊っていた。そのステージがあまりにも楽しく華やかで、キラキラしていて、笑っているうちに涙が出てきた。
 母は、スポーツ選手や俳優が「日本は強い」「頑張って立ち直ろう」と口々に言うコマーシャルを繰り返し見ているうちにひどく落ち込んでしまい、頑張れないよ、と子どものように私に訴えた。私自身、行く予定でチケットを取っていたライヴの見合わせがウェブサイトで発表されたとき、そこに添えられていた「俺達は強い」というメンバーのコメントに、私は強くなんかない、楽しみにしてたライヴがなくなってどうしたらいいのかわからない、我慢なんて出来ないし乗り越えられない、と風呂場で頭を抱えて泣いた。励まされているのに、慰められているのに、傷ついてしまうほどに参っていた。
 そんななかで、連日ニュースで流れる悪夢としか思えない津波や瓦礫のことを束の間忘れさせてくれ、私を少し楽にしてくれたのは、ジャニーズのアイドルとディズニー・キャラクターの笑顔に満ちた風景だったのだ。
 ああ、ディズニーランドに行きたい、エレクトリカルパレードが見たい、と思った。あの圧倒的な光と音の洪水。泣けてくるほどの多幸感。今回のことで受けたあまりにも大きくて深い傷の痛みから一時的にでも逃れるためには、あのくらい正の方向に絶対的な強度を持った「夢と魔法」でなければ。

(……けれどディズニーランドもエレクトリカルパレードも、お金と電気を湯水のように費やさなければ創りあげられないものだ。
 ディズニーランドが象徴する幸福と豊かさを資本主義と切り離すことはできない。
 それなしでは生きていけないと私が渇望する虚構は、グローバリゼーションや原子力発電なしでは、存在できないのだろうか……)
 

Tokyo Disneyland; 2011.06.12

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